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景福宮午前

  • ツアー時間  09:00 ~ 12:30
  • 最小人数  1人
  • コスト  ₩38,000 ($35.00)
  • コース 出発場所 >  曹渓寺 >  景福宮 守門將 交代儀式 >  景福宮 >  国立民俗博物館 >  紫水晶や人参センター >  梨泰院到着
  • 含まれる物
    1.日本語のガイド 2.車両 3.入場料
  • 支払い
    現金又はカード
  • 取消し
    ツアー行事日1日前(24時間)以降からの取消しは100%取消料徵收いたします。
  • 注意事項
    1. モーニングツアーは梨泰院や市庁で解散とさせていただきます。
    2. 火曜日は景福宮&国立民俗博物館の休館であるため、他の観光地に取り替えられます。
    3. 零下5度まで下り、又は雪、雨が降るの際、王宮守門将交代儀式はキャンセル可能性があります。

曹渓寺




1910年に建てられた曹渓寺は、 昔のソウルの城郭の中にあった寺としては唯一の寺である。 初めて建てられた時の名称は覚皇寺で、1936年からは太古寺、 1954年になって曹渓寺と変わった。 太古寺と名を変えてから、 曹渓寺は韓国仏教の総本山としての役割を担当して来た。 「曹渓」は、中国禅宗仏教の六祖である「慧能」(638~713)が住んでいた山の名前である。 慧能法師は特に韓国の仏教徒から尊敬され、 彼の一生と教えは絶えず研究の対象になっている。 現在曹渓寺は、 韓国の仏教と、韓国仏教の主な宗派である曹渓宗の総本山の寺院の役割を担っている。 曹渓寺の大雄殿は、 外壁が仏陀の生涯と教えを描いた壁画 で装飾され、 また格子模様が刻まれた大きい木造の門が印象的である。中にある仏像は、 確かなことはわかっていないが、 全羅道の道岬寺という寺から来たという伝説がある。 仏像の後ろの壁には仏画がかかっている。 真ん中には釈迦牟尼仏、その下の両側には仏法を保護する四天王と菩薩が、 その上の両側には釈迦の弟子が描かれているものだ。そして、 釈迦像が安置されているガラスケースの反対側には、 木版大蔵経を入れた棚がある。 この大雄殿が仏教行事が行われる中心地で、 一年中念仏をあげ、 法話、 参拝が後を断たない。



守門将交代儀式




朝鮮時代、守門将(スムンジャン)は王が生活する宮廷の門を守る責任者として、決められた規則によって光化門を開け閉めする職責でした。1469年に守門将制度が制定された当時の記録をもとに現在の光化門、景福宮前で守門将儀式を再現しています。当時、宮廷を守っていた軍人の服装や武器、各種装身具の再現はもちろん、とても厳しい儀式の一部始終も当時のまま再現され、景福宮を訪れる観光客の目を楽しませてくれます。


2016.01.01 ~ 2017.12.31

公演時間

守門将 交代儀式:10時、14時/1日2回/所要時間20分

光化門 把守儀式:11時、13時/1日2回/所要時間10分

守門軍公開訓練(景福宮協生門外):9時30分(15分間)/13時30分(15分間)

*公演時間は変更することがあります。

*雨天時は公演が中止となります。



景福宮    漢陽の中心だった朝鮮王朝第一の法宮


景福宮は1395年に創建した朝鮮王朝第一の法宮(王の住む宮廷)である。北には北岳山が、南には正門である光化門があり、その前に広い六曹通り(今の世宗路)が開かれた漢陽(ソウル)の中心だった。後に拡張と再建を繰り返えす中、1592年の文禄の役の際、全焼してしまった。その後、景福宮は約270年間復旧されることなく放置されていたが、1867年に高宗(26代目の王)の実父(興宣大院君)の主導で再建された。再建された景福宮には、約500棟の建物があった。宮廷には基本的に王と役人たちが政務を担当する外殿、王族と宮人たちが生活する内殿、休息のための庭園施設などがあった。

景福宮は日本の植民地時代、計画的に毀損された。1911年に景福宮敷地の所有権は朝鮮総督府に移り、1915年には朝鮮物産共進会を開催するという名目で90%以上の殿閣が取り壊された。1926年には巨大な朝鮮総督府庁舍が建てられ、景福宮の建物は見えなくなった。景福宮は1990年から本格的な復元事業を推進している。昔の朝鮮総督府の建物を撤去して興礼門一帯を復元し、2010年には正門の光化門を復元した。




光化門の受難と復元      日本は朝鮮総督府の庁舍が完成すると、景福宮の顔と言える光化門を無くそうとした。しかし甚だしい反対世論にぶつかり、景福宮の東門である建春門の北側に移した。その後、朝鮮戦争の時に爆撃で基壇部だけがり、壊れたものを1968年に鉄筋コンクリートで再び作ったが、当時の道路と周辺建物の軸に合わせたため、元々の姿や位置とは違っていた。2006年にこれを撤去し、再び復元工事を始め元来の姿と位置を取り戻すようになった。2010年に復元完了した。




光化門と宮廷の石垣     昔の栄華を思わせる4大門


景福宮を囲む石垣の長さは2,404mに達し、高さは平均5m、厚みは2m程度だ。石垣の四方には4つの大門を作り、1426年(世宗8年)に建春門(東)、光化門(南)、迎秋門(西)、神武門(北)と名付けた。これはそれぞれ春-夏-秋-冬と木-火-金-水を象徴し、真ん中に位置する勤政殿を中心に四方を取り囲んでおり、伝統的な五行説に由来した名称だ。景福宮の正門である光化門の両端の角には望桜である東十字閣と西十字閣を建てて、朝鮮の5大宮廷のうち、唯一、闕門形式を備えている。西十字閣は1920年代に撤去された。東十字閣は道路拡張によって石垣が内側に縮小され、道路の真ん中にぽつりと立つようになった。







                  

勤政殿一帯     儀式・国家行事が行われた宮廷の中心


勤政殿は景福宮の最高殿閣である法殿(正殿)で、その名前は‘天下の事は勤勉であれば治まる’という意味を持っている。宮廷で最も荘厳な中心建物として王権を象徴し、王の即位式や文武百官との朝会、外国使節の接見など国家行事を行った所だ。1926年に勤政門外側の領域は取り壊され、そこに朝鮮総督府庁舎が建てられた。2001年に興礼門と永済橋等を復元して元の姿に取り戻した。勤政殿は韓国の国宝第223号、勤政門は宝物第812号に指定されている。





思政殿一帯    国政が行われた所


思政殿は王の公式的な執務室で、その名前には王が政治に臨む時、深く考えて正否を選り分けなければならないという意味が込められている。毎朝の報告と会議、国政セミナーにあたる行事などがここで開かれた。思政殿の左右にある万春殿と千秋殿は、オンドル部屋を取り揃えて冬でも利用できた。万春殿は朝鮮戦争で焼失したものを1988年に復元した。思政殿の前の倉庫は王室の財物を保管する所として利用した。思政殿は宝物第1759号に指定されている。




康寧殿と交泰殿    王室の生活が息づいている所


王と王妃が日常生活をする所を寝殿と言う。康寧殿は王の寝殿である。寿・富・康寧・攸好徳(徳を好み、喜んで行うこと)・考終命(寿命のとおりに生きて楽に死ぬこと)という五福の中で真ん中の三番目の福が‘康寧’である。王はここで読書と休息など、日常生活だけではなく臣下たちと政務を執ったりした。交泰殿は創建当時ではなく1440年(世宗22年)に初めて建てられた。ここは王妃の寝殿で宮廷内の生活を総指揮した所だ。







欽敬閣と含元殿   王室の必要によって内殿の近くに作った建物


欽敬閣は農業発展のために天体の運行を理解して時間を精緻に測定しようとした王の苦心と努力が込められている建物だ。世宗は1438年に欽敬閣建設を命じて、ここに玉漏機輪・仰釜日晷などの時間測定機器と天文観測装置である簡儀を作って設置した。交泰殿の近くに位置し、主に仏事を行った含元殿も世宗の時に建てられたと推定される。朝鮮王朝は儒教国家だが、世宗など多くの王と王妃が仏教に心酔していたという記録が実録に残っている。何回かの焼失を経て1888年(高宗25年)に復旧されたが、景福宮の他の内殿と同じく1917年の昌徳宮大火災以後、昌徳宮再建のために取り壊された。現在の建物は1995年に復元したものだ。





慈慶殿一帯   興宣大院君が捧げた大妃殿


憲宗(24代目の王)の母君である神貞王后は高宗(26代目の王)の即位に決定的な寄与をした人物だ。高宗の実父である興宣大院君は神貞王后の居所を宮廷内で最も華やかで細やかに作り、その恩に報いた。‘慈慶’という名前は正祖(22代目の王)が即位して母君である恵慶宮洪氏のために昌慶宮に慈慶堂を建てたことから始まった。王が母君に慶事があることを願うという意味である。二度の火災で焼失後、1888年に再建して景福宮寝殿のうち唯一残っている昔の建物だ。慈慶殿は宝物第809号に指定されている。




慈慶殿一帯は南向きの慈慶殿を中心に西北側に福安堂を、東側に清讌楼と協慶堂を連結した複合建物群だ。福安堂はオンドルを設置して冬期用の寝殿として、清燕楼は板の間を設置して夏期用の空間として使用した。西側の石塀は福や長生きを祈願する模様などで飾った。また、裏側の石塀には母君の長寿を祈る十長生煙突を設置した。




東宮一帯    浮び上がる太陽,王世子の居所


王世子は昇る太陽のように王位を継ぐ人であるため、内殿の東側に居所を配置して、これを東宮と呼んだ。西側の資善堂は王世子と世子嬪が暮らした内殿で、東側の丕顯閣は勉強をしながら政務も担当していた外殿に該当する。南側の春坊の跡には王世子の教育を担当した侍講院が、桂坊の跡には儀典と警護を担当した翊衛司が、その周りには部属官庁があった。朝鮮初期には東宮が宮廷の外にあり、宮廷内に東宮殿として資善堂を作り始めたのは1427年(世宗9年)だ。文禄の役の時に全焼して1867年に再建される。日本が朝鮮物産共進会開催を控えて博覧会を開くという口実で、1914年に東宮一帯を完全に撤去した。この建物は1999年に修復したものだ。




咸和堂と緝敬堂     後宮と宮女たちの空間



To the north of Gy交泰殿の北側にあるアミ山の向こうには、興福殿一帯が位置していたが、この一帯は後宮と宮女たちのための後宮領域だ。寝殿として使われた幾多の殿閣と複雑な行閣は殆んど無くなり、現在は咸和堂と緝敬堂だけが残っている。これは、日本が朝鮮総督府博物館を運営し、その事務室として使うために壊さなかったからだ。今は無くなった興福殿は後宮領域で、中宮殿である交泰殿に似た所だが、格を一段階低くして作った。ところが、神貞王后がこの興福殿で崩御したのを見ると、大妃殿としても使われていたことがわかる。咸和堂と緝敬堂は廊下で繋がっており、高宗が乾清宮にとまる当時、ここで外国使臣を接見したという記録が残っている。





香遠亭と乾淸宮      高宗のために建てた空間


咸和堂と緝敬堂の北側の後園領域には香遠池という四角い池が造成されており、その中に香遠亭がある。慶会楼が雄大壮厳で男性的なら香遠亭はこぢんまりして女性的な雰囲気を漂わせている。元々は北側の乾清宮につながる橋があったが、朝鮮戦争の時に破壊され今のように南側においた。香遠亭(宝物第1761号)は世祖(7代目の王)の時に建てた翠露亭跡に乾清宮を建てる時に造成したもので、香遠亭の北側に乾清宮が位置している。高宗は1873年(高宗10年)に実父(興宣大院君)の政治的干渉から脱して親政体制を構築しながら、政治的自立の一環として乾清宮を建てたそうだ。乾清宮は王妃の居所である坤寧閤、王の居所である長安堂、洋館である観文閣などから成り立ち、1895年に明成皇后が殺害された悲劇の場所でもある。1900年代の初期に取り払われた後、1939年にはここに美術館が建てられ、1945年独立以後(戦後)は民俗博物館として使用されていた。2007年に観文閣を除いた殿閣を復元した。







集玉斎一帯     清風と朝鮮風の調和


1876年、景福宮に大火災が起こると高宗は昌徳宮に移り、1885年に再び景福宮に戻って主に乾清宮で過ごした。この時、昌徳宮の咸寧殿の別堂であった集玉斎と協吉堂などを1891年、乾清宮の西側に移し、書斎や外国使臣接見所として使用した。集玉斎は煙瓦を積んで両壁面を作った清風建物で、外から見ると単層に見えるが、内部は2階になっている。八隅亭は八角楼閣で柱の上部に清風の華やかな飾りをつけた。一方、協吉堂は固有の朝鮮式建物で、オンドル部屋を置いて休息場所として使用した。これらの建物は廊下で繋がれており、それぞれの特色を持ちながらも絶妙に調和を成している。




泰元殿一帯     王位正統性確保のための高宗の努力


王子出身ではなかった高宗は、父親(興宣大院君)とともに王権承継の正統性是非に対応しなければならなかった。その一環として泰元殿を作り、歴代王の肖像であるご真影を奉ることで正統性を確保しようとした。1868年(高宗5年)に建立されたと推定される泰元殿には太祖(1代目の王)のご真影を奉った。以降、皇后の遺体を奉る殯殿として使用したりした。文慶殿は位牌を奉る魂殿として建立した。周辺に恭黙斎、永思斎などの儀礼用建物もあり、神聖な一郭を成したが、日本の植民地時代に撤去された。ここは青瓦台が近いという理由からか、1961年5.16クーデター以後、青瓦台の警護部隊が立ち入り、1979年、いわゆる‘景福宮謀議’をした所でもある。2006年に現在の姿に復元された。



慶会楼     雄大壮厳ながらも美しい建築美学の絶頂


慶会楼は王が臣下たちと規模の大きい宴会を開いたり、外国使臣を応待していた所だ。池で舟遊びを楽しんで慶会楼に上がり、仁王山と宮廷の景観を鑑賞した。創建当時、小さな楼閣だった慶会楼は1412年(太宗12年)に池を大きく確張して楼閣も大きな規模に再建した。文禄の役で焼失したのを1867年に再建した。慶会楼は正面7間、側面5間の重層で、広さ931㎡の大規模の木造建物だ。1階は48の高い石柱だけを立て、2階に床を敷いて宴会場として利用した。床底は3段のうち中心部分が最も高くて、その次の12間と外側の20間はそれ一指尺ぐらい低くなっている。中央に行くほど高い位階の官僚たちが座った。慶会楼は周易の原理に基づいて建てたという昔の記録がある。これによると、中央の3間は天地人を、12間は1年十二ヶ月を、20間外側にある24個の柱は24節気を意味する。すみむね(隅棟)には韓国の建物の中で最も多い11個の雑像(屋根の上の四隅にさまざまな神像を刻み入れた装飾瓦)がある。再建当時に青銅で作った二つの竜の像を池に入れて、水と火を治めるようにしたという。1997年浚渫工事の際出土され国立古宮博物館に展示している。慶会楼は韓国の国宝第224号に指定されている。






修政殿と闕内各司     王室業務のための官庁


光化門前の六曹通りにあった官庁を‘闕外各司’といい、宮廷に入っている官庁は‘闕内各司’と呼んだ。勤政殿の西側に位置した闕内各司は、大きく四つの部分に分けることができる。承政院、弘文官、芸文館、教書館などは王を近くで補佐する政治行政機構だった。内班院、尚書院、尚衣院、司甕院、司僕寺などは王室の生活と活動を補佐した実務官署だった。欽敬閣、報漏閣、観象監、簡儀台などは天文と時刻を観測する科学部署で、都総府、内兵曹、宣伝官庁、忠壮衛などは宮廷守備と王室警護を引き受けた軍事部署だった。このうち、修政殿だけが現在唯一残っている。1867年に再建されたここは、王の出入りが頻繁で官庁建物としては珍しく正面に月台を置いた。修政殿は執務空間として使用していたが、1894年甲午改革の時、内閣本部である軍国機務処として使用されたりした。闕内各司は修政殿の前の空き地に密集していたが、1915年朝鮮物産共進会を開催時に完全に撤去された。ここは世宗の時(1443年)、ハングル創製の産室である集賢殿があった所でもある。修政殿は宝物第1760号に指定されている。







国立民俗博物館




国立民俗博物館(クンニプ・ミンソクパンムルグァン)は韓国の昔の生活を地域別、機能別、時代別、類型別に分類し展示した博物館です。所蔵品は約2万点余りで、この内4000点が展示されています。 




第1展示館では先史時代から朝鮮時代(1392~1910)に至るまで韓民族が営んできた生活の様子を各時代別の特徴と文化財を分かりやすく展示してあり、歴史と共に発展していく陶磁器と農機具などが見られます。 

第2展示館では農耕と狩り、漁、衣服、家屋形態などに対する資料を見ることができますが、中でも各種手工芸品と装身具、器やキムチや味噌の甕などが興味深い展示物です。 

第3展示館のテーマは韓国人の一生。生まれてから成人する人間の一生を通して、韓国の祭祀や通過儀礼の様子を見ることができます。



青瓦台サランチェ




青瓦台サランチェでは、歴代大統領の足跡や韓国の伝統文化に触れることができます。過去・現在・未来を共有できる歴史記念館であり、文化広報館です。青瓦台サランチェは、三清洞や景福宮、光化門広場、清渓川へと続く平和で美しい韓国のサランバン(客間)とも言えます。青瓦台サランチェは地下1階と地上2階建てで、総床面積は2386.85㎡を誇る展示館です。1階は韓国文化展示室や企画展示室、記念品ショップ、休憩スペース、2階は青瓦台館、幸福ヌリ館で構成されています。





旅行日程

以下のコースを参照してください.